種子法は、ほんとうにいい法律だったのか

種子法は、ほんとうにいい法律だったのか
仕事の誇りが大切なのに

宇根豊(百姓・思想家)

1、旧・種子法の評価は悩ましい
「種子法廃止で、農家は自家採種ができなくなる」これは、とんでもない誤解だ。では「種子法廃止で、外国資本の民間育種の種子がはびこっていく」とは、可能性はある。しかし、それは大事な視点ではない。(はびこらないために自家採種が必要なのに。)
 まず「種子法」とは「主要農作物種子法(2018年4月1日廃止)」のことで、稲と麦と大豆の品種改良、奨励品種の選定、その種子の生産と配布を支えてきた法律で、1952年に制定された。日本だけに通用する法律である。
よく混同される「種苗法」は、1947年に制定され、1978年、そして1998年に改正された。それは「植物の新品種に関する国際条約」の改訂に、国内の種苗法を合わせてきたからである。こちらは国際的なものだ。簡単に言うと、種苗法によって、登録された新品種は、25年(果樹などの永年作物は30年)の育成者権が与えられて保護される。(現在約9000品種)
 さて、「種子法」のメリットは、国の義務づけによって、稲・麦・大豆の、A:いい種子を、B:安定して、C:安く百姓に提供してきたことである。そのために国からの補助金が地方交付税に上乗せされてきた。「種子法」はその根拠法である。現在作付けされている稲・麦・大豆の種子のほとんどが、A:主に国と道府県の試験場で育種(品種改良)されたものから都道府県の奨励品種に採用され、B:道府県が原種を採種百姓に配布して、種子を生産し、C:県から農協を通じて販売されてきた。たしかに、百姓が育種した品種や民間業者が育種した新品種は不利だった。(奨励品種に採用されれば問題はないのだが。)
 これが、「種子法」をめぐる外からの見方である。国家からの、農水省からの、都道府県からの、農協からの見方である。こういうメリットを見る限り、廃止に反対するのは当然のような気がする。ところが、この法律の恩恵をもっとも受けて来た都道府県や農協は、ほとんど廃止に反対していない。(農水大臣は補助金は減らさないと答弁している)したがって、新たな条例で対応しようとしているところが多い。なぜだろうか。一方反対運動をしているのは、有機農業をやっている百姓やそれを支援している市民に多い。有機農業をやっている百姓は「自家採種」しているのなら、この法律はとはほとんど無縁である。「将来モンサントの種子に支配される」などと言うのも、外からしかみていない。

2、国や行政に守ってもらうという発想の大切さと危険性
国や行政に守ってもらうことは、国民として、県民として、当然のことであるし、「米・麦・大豆という主要な食糧を安定的に生産するのは国家の責任だ」という言い分もまちがってはいない。しかし、同時に国によって管理されていくこと、知らず知らずに政策によって誘導されていくことにも気づいておかなければならない。
 そこで、種子法のデメリットを見つめてみよう。国や行政がなかなか言わないことである。あるいは国や行政には見えない世界のことである。
反A:いい品種とは都道府県が選定する奨励品種ばかりになってしまって、在来種が作付けできなくなった。反B:自家採種するよりも、種子を購入することがあたりまえになった。都道府県の種子更新率は稲88%、麦92%になっている。30年前は30%が目標とされていたのに。
反C:自家採種するよりも購入する方が安く手に入るようになった。購入した種子で栽培した稲でないと、品種の照明が得られず、(場合によっては検査が受けられず)米の販売が不利にもなる。
 こう言っても、有力な反論が待ち受けている。反Aと反Bと反Cこそが、農業の進歩・発展だったのだから、批判する方がおかしい、と言われるだろう。百姓もこの資本主義社会を生き延びていくには、競争に負けてはならない、時流に乗って農業の価値を追求するしかない、そう言っているわけだ。
 ここにこそ、最大の難題がある。私たちはいつのまにか、対峙すべき「敵」と同じ思想に染まっている。だから反対運動も足下を見られてしまう。今日は「種子法」を素材にして、現代社会が向かっている暗闇を照らしてみたい。

3、農業の進歩とは?
種子は自家採種するよりも、購入した方がいい理由とは、(1)プロの採種百姓が原種を混ざらないように栽培して、いい品質の種子を生産してくれるから。(2)購入した方が楽で、むしろ安いから。(3)購入種子で、素性が知れた奨励品種であれば、米が売りやすいから。(4)苗も買っているので、購入種子にならざるをえない、というようなものであろう。
 もっともな理由のような気がするだろう。これを、意地悪く表現するなら、(1)もともと自家採種していた仕事を失うことに無頓着で、(2)種子の自給など時代遅れで、外注する(分業する)のは他産業では当たり前だからという思想に染まって、(3)「自家採種」ではブランドにならないと思い込み、(4)苗も自給しなくて外注しているのだから、採種はなおさら外注すべきだろう、となる。
 安倍政権は「働き方改革」をすすめている。当然ながら農水省も「働き方改革」の指針を示している。それによると「他産業並みの労働を目指すんだ」と言う。そのためには「農業は特別だ」という考え方・感覚を捨てなさい、と言っている。そうなんだ。農業も他産業の同じように、資本主義社会の中では、労働生産性を上げ、所得を上げ、豊かな富を手にし、人間の幸せを追求しなくてはならないのだ。
 そのためには「仕事」を果たして他産業のように分業することが幸せに結びつくのだろうか。仕事を細切れにして、一部あるいは多くを外注することは、仕事の誇りや生き甲斐や喜びを豊かにするだろうか。遺伝子組み換え技術に賛成している人がこう書いていた。「カナダの農家にとっては、遺伝子組み換え作物を選択するか、組み換えでない作物を選択するかは、どちらを作付けした方が経営的に有利かという判断でしかない。安全性は関係ない。」
 ここには、「仕事の誇り」(生態系への安全性も)という視点はまるでない。この人を責めるわけにはいかない。時代はそういう価値観で席巻されているのだから。

4、種子更新(種子を買うこと)を正当化する思想とは?
 私は20歳代の頃、農業改良普及員として米の検査にしばしば立ち会っていた。当時の福岡県筑紫郡那珂川町では、検査は品種ごとに行われる。当時(1975年頃)、那珂川町で出荷され、検査さた稲の品種は56品種だった。食糧事務所の検査官から、「もう少し品種を集約できないものですかね」と言われたことを思い出す。ほとんどの都道府県は百姓の栽培する品種は都道府県の「奨励品種」に絞り込むように指導している。それを真に受けた私は那珂川町の稲作講習会で「品種を奨励品種に統一しましょう」と提案したところ、一人の百姓から「自分の田んぼにあった品種を栽培して何が悪いのか」と猛反発を受けたことを忘れない。
 品種統一を奨める理由は、品種の数が多いと検査・保管・流通がしにくいし、奨励品種以外は、採種圃が設置できず自家採種でやるしかなく、また奨励品種以外は栽培基準が立てにくいという、行政側の都合だと思い知った。知らず知らずに品種の多様性が失われていくのは、百姓の仕事が、稲の生よりも、経済に向かうことを、この「種子法」が奨めたからだとも言えよう。
「種とり」(採種)は、とても大切な百姓仕事である。種がなければ、種まきはできない。どんなに米が不足しても、種籾だけには手をつけなかった。種子はその作物(生きもの)の“いのち”を乗せて時を越えていく、いのちの別名だからだ。種を実らせることは、人間の母親が子どもを産むことに似ている。
 そのいのちを外注することを「種子更新」と呼ぶ。種子更新を否定しているのではない。しかし、かつては3年から5年に一回更新すればいいと言われていたのだから、毎年更新する(購入する)必要はない。(まして稲麦大豆は、自家受粉で交雑しにくい。)
 しかし、種子のことだけ考えていては、木を見て森を見ないことになる。他産業は、ひたすら分業化を推進している。自動車や服を、自分で原料から調達して、一人で製作している「産業」はありえない(成り立たない)。農業も同じ道を遅れて、走っている。生業から産業への歩みこそ、資本主義の発達なのだから。

5、なぜ農業は近代化しないといけないのか?
 戦前から戦後にかけて大きな影響力を発揮したのが東京大学教授の東畑精一である。彼は昭和初期の著書でこう言っている。「田畑や農法のことは農民が一番よく知っている。なぜなら毎年同じことをくり返してきたからだ。ところがこれからは資本主義が急速に発達していく。このままでは農業は資本主義の発達から取り残される。したがって、農業を資本主義の発達に乗せるのが、農学と農政の役割となる。」
 どうだろうか、現在でも「まったくその通り!」だと賛成する百姓や政治家や役人がほとんどだろう。「農業を成長産業に!」と言っている人たちだけではなく、多くの百姓までもがそうなのだ。「日本の百姓は近代化を問うことが極めて少ない。」という事実をしっかり受けとめたい。
 農業の資本主義化と近代化はもう100年以上も続いてきた。その精神は日本人の身体の隅々まで浸透している。しかもそれは、日本国の農政と日本農学によって進められてきた。
ところが、この問題に真正面から挑んだ百姓たちがいたのだ。結局、彼らは異端のまま、誤ったレッテルを貼られて、忘れ去られてしまった。私は彼らを再評価しようとしているのだ。

6、かつて農本主義者がいた
 彼らは「農本主義者」と呼ばれている。そのリーダーの一人であった茨城の百姓・橘孝三郎は「百姓の学」を創学しようとしていた。だが、彼はそれを果たせなかった。五・一五事件の首謀者として下獄したからだ。
 彼のすごさは「農業は資本主義とは相容れない」ことを発見し、このことを証明する学をつりあげようとしたことだ。これには私は驚き、感動した。今日まで「農業が資本主義に(社会主義にも)合わない」理由を突き詰めた「学」があっただろうか。あったらぜひ教えてほしいものだ。この程度の農学だから、グローバル化にも、遺伝子組み換えにも、種子の独占にも、農業技術のIT化・AI化(政府はスマート農業と呼んでいる)にも反対できないだけではない。そもそもこれらの資本主義的な「発展・暴走」になぜ農業までが巻き込まれてしまうのか、を解明できないのだ。
 本来、農とは資本主義的な発達に抵抗できるものを、内部に深く抱えているのに、それを掘り起こす「学」(方法と言ってもいい)が不在なのである。その方法を不十分ながら発掘した百姓がいたのに、戦後は無視されて来た。
私はこれまで、近代化(資本主義化)から見捨てられてきたものを、まるで落ち穂拾いをするように、拾い集めて理論化、体系化をもくろんできた。そうして「農本主義」に出会ったのである。何度となく「なぜ右翼反動思想に肩入れするのですか」と言われた。既成のイメージを覆すのは難しい。しかし、もう右翼vs左翼の時代ではないだろう。反近代・反資本主義vsウルトラ近代化・ウルトラ資本主義の時代ではあるまいか。

7、なぜ農は資本主義と相容れないか
農本主義者は(私も)その理由を三つあげている。第一に百姓仕事は「労働」ではない。第二に、百姓仕事は相手が天地自然であり、生きものたちは経済で生きているのではない。第三に、農は経済価値がないものをいっぱい生みだしている。それではその内容を簡単に説明しよう。
 (1)百姓仕事は労働ではない理由は、労働時間や労賃という尺度をあてはめることが不可能だからである。そもそも儲からないからやめる、というわけにはいかない。作物や田畑が待っている。生きもの生があふれる世界が待っている、と言ってもいい。手入れにはげむから、次第に仕事に没頭し、時の経つのも忘れ、そして我も忘れる。はっと我に戻ると、日も傾いている。もうこんな時間か、と気づく。労働時間などという意識はどこにもない。こういうひとときに資本主義は手を出せなかった。これまでは。
(2)百姓仕事は天地自然の中の生きものを相手にしている。人間本位ではなく、つい相手本位になってしまう。わが子を育てるのにコスト意識は入れないように(近年このたとえは、適切ではなくなりつつあるようだが)作物への情愛は、費用対効果では計れない。一日に何回でも、わざわざ遠回りしてでも相手の顔を見ないと気がすまない。大雨の時も、つい田畑に駆けつけて、濁流に流されて命をなくす百姓が後を絶たないのは、悲しいことだがよくわかる。
 (3)農は食料だけを生産しているのではない。福島原発事故の放射能で汚染され、作付けが禁止された田んぼで、燕や蛙や虫たちのために田植えをした百姓がいた。その稲は人間に食べられることはない。しかしこれも立派な農業である。米の生産よりも、生きものために、風景のために、村のために、そして仕事の嬉しさのためにやる、そういう農業もあることに気づかないまま、減反も続いてきた。
ようするに、農の中の「生業」部分は、資本主義化されずに、まだまだ土台として残っているのである。それすらも「農業は特別だと考えるな」と、駆逐・破壊しようとしているのは誰なのか。農を資本主義に合わせることが、農業の進歩・発展だとする思想は、衰えをしらない。
ただ、近代化を推進するための日本農学も、じつは1970年代から新しい芽が出てきていた。それは「近代化のひずみを是正していく学」が浮上してきたことである。それは数々の「公害」や「農薬汚染」が相次ぎ、対案として有機農業が生まれてきたことがきっかけとなっている。私もこの潮流の中で「減農薬運動」を提唱し、「百姓学」まで歩いて来た。この流れを、近代化の是正ではなく、脱近代の思想に深めたい。(戦前「近代の超克」を標榜した思想が、みのりを残していないことを直視しておきたい。)

8、内なる堕落
資本主義が新しい技術によって(イノベーションを起こして)経済成長を維持してきたのは、経済学の常識らしい。ところが従来の技術革新とは、まったく別次元の革新技術が農業に導入されようとしている。遺伝子組み換え技術とスマート農業(IT、AI技術)である。前者は別の機会に論じることにして、ここでは後者を私は論じたい。
JA全中の前会長は「これからは、百姓は一歩も田畑に入らずに、AI(人工知能)装備のロボットが農作業を行うようになる」と宣言した。労働は楽で短い方がいい、それどころか機械に任せて、百姓はモニター画面を眺めていればいい、と言っているわけだ。
 百姓仕事を単なる「労働」と見ているから、ウルトラ資本主義の「成長戦略」「農業競争力強化」に対抗できない。もしロボットが田畑で作物を観察し、状況と対応を判断し、手入れを行うならば、百姓の(人間の、と言ってもいい)働くよろこび、生きがい、田畑や作物や風景への情愛、自分なりの知恵と考え方は、行方不明になるだろう。有力な解決策は、「ロボットにこれらの人間的な情動を具備させる」ことになるらしい。えっ?
なぜ子どもたちの田植え体験は「手植え」なのだろうか。「ほとんどの百姓が田植機で植えているのだから、田植機を運転させるべきだろう」とは、誰も考えない。田植機では、田植えの大事な部分が体験できないことは、誰もがわかっている。それでは聞く、その大切なものとは何か。百姓ならたぶん、答えることができるだろう。なぜなら、少しでも手植えしたことがあるからだ。
私たちは「同じものを生産するなら、コストは安い方がいい。労働時間は短い方がいい」と思いこんでしまっている。同じコストなら、収穫は多い方がいい、と言い換えてもいい。いつのまにか、気づかないうちに資本主義の精神・思想に、足もとがずーっと侵食されてきた。批判を向けている相手の思想に、じつは自分も馴染んでしまっている。近代化とは、資本主義のすごさとは、そういうものなのだ。
 自分で種採りをしていると、種変わりの稲を見つけることは毎年ある。それを自家の品種として選抜するのは、コストからみると割に合わない。まして自分で交配するなんて、「いい趣味ですね」と馬鹿にされる。こうして種籾は購入するものになり、やがて苗すら購入し、田まわりをする代わりに(田んぼを観察し、手入れの可否と内容を判断する)ICT技術(ロボットやドローン)まで導入しようとしている。この泥沼はどうにかならないものか。

9、しらずしらずの洗脳
農業についての以下の説明は、すべて間違っていることがわかるだろうか。
(1)農業とは食料を生産する産業である。
(2)同じものなら,安く生産する方がいい技術である。
(3)農産物の価格は、かかった経費(コスト)をとりもどせばいい。
(4)農作業が短く、楽になるように農業技術は発達させなければならない。
(5)同じ労働時間なら得られる所得が高い仕事が、優れている。
(6)一定の所得が確保できてこそ、環境に配慮できるようになる。
(7)百姓もせめてサラリーマン並みの所得は必要だ。
(8)有機農業も生産性を上げないと広がらない。
(9)雑草の少ない田んぼや畑が理想である。
(10)AI技術、ICT技術は、農業の担い手不足を解消する切り札だ。
(11)米は食管法時代は市場から隔離され、しっかり保護されてきた。
(12)稲や野菜と気持ちが通いあうというのは、ほとんどオカルトの世界である。
(13)有機農業であっても、農業自体が不自然で自然破壊である。
(14)「百姓」という言葉は、差別語あるいは差別用語に準じるものである。
(15)封建時代の百姓は、重税に苦しめられた。

もう、これくらいにしておこう。近代は前近代よりも優れている、わけではない。むしろ前近代(封建時代)の方が良かったことはいっぱいある。それが見えなくなっている。さらにタチが悪いことに、近代は人間中心主義(ヒューマニズム)で、人間の欲望を達成することがいいことだとされてきた。資本主義が発達するワケである。また人間以外の生きものが生きにくいのは、当然だろう。それに近代は、私たちは国民国家の成員になった。(江戸時代は違っていた。)つい国家に要求し、国家に頼ってしまう。「種子法」は国家の責任を都道府県に委託して、百姓はその「恩恵」を受けて来たのに、そこに「国家」を意識しないぐらい、私たちは国民化されてしまった。(農水省はさらに「農業競争力強化支援法」まで制定して、さらに近代化・産業化・資本主義主義化を計ろうとしている。ああ!)

10、思考実感をやろう
 そこで、二つの思考実験をしてみよう。
 (1)「米の価格は安い方がいいのだろうか」
 多くの百姓は「いや、米の価格は、米の再生産を補償する価格でなければならない」と反論するだろう。そのためには、生産コスト(生産費)が販売で回収されればいいということになる。これは農業経済学という学問が百姓に持ち込んだ思想だが、おかしい。なぜなら、
 ①食べものの価値(価格)とはこうした論理で決めるものだろか。あまりにも合理的すぎる算定だろう。その証拠に、食べものを食べている消費者には(たぶん、かつての百姓にも)その食べものの生産費がわかるはずがない。むしろ価格が安いと、コストも安いのだろうと連想するのがオチである。安いものはそれだけ手もかかっていないと、判断されるのが資本主義社会の常識になっている。
 十年分100万円の食べものと、100万円の自動車は同じ価格だが、同じ価値ではない。しかし、同じ価格のものは同じ価値だと思うようになったのは、資本主義経済が「交換価値」(経済価値)で組み立てられ、その思想で私たちを洗脳してきたからだ。
②次にこの「再生産」とは、生産費が確保されていることを意味しているに過ぎない。農業生産とはその程度の理解ではいけない。
 1)たとえば稲は稲だけで育っているわけではない。下の絵でもわかるように、お玉杓子も一緒に育っている。お玉杓子に無意識であれ、まなざしを注ぎ、お玉杓子のために水を切らさないように、毎日の田まわりを欠かさないようにすることは、コスト計算されない。そもそもお玉杓子の生は、経済学の「再生産」という論理の枠外なのである。

 2)さらに、今年も、そして来年も田植えをしようとする気持ち・意欲は、米価さえ高ければ持ち続けられるものだろうか。仮に望ましい「米価」というものがあったとしたら、日本で160万人もいる百姓の誰の生産費を基準にはじけばいいのだろうか。たぶん何かの平均値を持ち出すだろうが、そもそもこういう論じ方がおかしいと考えるべきだろう。一人一人の百姓によって「米価」は異なるべきものだった。(近年の米価は、市場で決まっているという言い方も、嘘である。)

(2)「いいものを、いっぱい生産することができる農業技術が優れているのだろうか」
1)農業技術も同じような論理にはまっている。新しい技術は、①生産量が増える(増収する)か、②品質がよくなるか、③労働時間が短くなるか、④コストが低くなるか、で評価されるのが当然のように思われている。とくに近年は③④が重視されるようになった。
 一方で、技能・土台技術・経験知の伝承は衰えてきた。⑤どのような情愛のまなざしを注ぎ、⑥どのような天地自然観を背負って、⑦どのような伝承を身体に宿らせ、⑧どのようなものを未来に残そうとして、仕事をしてきたかは無視される。
2)それは、農業技術によって生産されると言われている「食べもの」の価値にも如実に表れている。①安全で、②おいしくて、③新鮮で、④安い、方がいいとされるようになった。それは、①農薬残留、②成分、③賞味期限、④価格、というように、科学的に数字で表現されるのがあたりまえになった。その結果何が見失われようとしているのだろうか。
 ⑤どこで、どういう天地自然からもたらされたのか、⑥誰が育てたのか、⑦どういう情愛を注ぎ込んだのか、⑧なぜこの食べもの(生きもの)はここにいるのか、⑨どういう生を全うしてきたのか、などに思いをはせることが少なくなってしまった。

11、近代化を問うことの難しさ
「種子法」のもとで行政が奨める種子が、安く、安定的に供給されてきたために、皮肉なことに「自家採種」が崩壊し、品種が画一化され、見た目だけを重視する検査制度が定着してしまった。近代化とは、このように国家の強制ではなく、国民の支持の下に、(近代化への欲望を静かに確実にそそり、実現することによって)進められ、実現される。
 かつて大正時代には、GDPの半分もあった農業生産額も現代では1%である。いかに本来は不要なものが(そうは感じなくなっていることは承知で言うのだが)生産、消費されているからである。これが資本主義の本質である「経済成長」の核心である。
 近代化精神はことのほか「農業は食料を生産する産業である」ということを強調してきた。これは明治時代末期から、工業に対抗する思想として「工業には命の糧である食糧は生産できないだろう」という意味で、農本主義者たちが使い始めたものである。(ちなみにこの「農本」という言葉も明治時代末期に「工本」に対抗して造語された。)
 たぶん現代では「農業の本質は食料の生産にある」と思っている国民が大多数だろう。これは近代化思想の典型で、結果の価値だけを強調するものだ。(農本主義の最大の失敗がここにある。)いい米を生産するなら、自家採種しようと,苗を購入しようとどちらでもいい、ということになる。いい米が生産できるなら、蛙が一匹もいない田んぼで生産されようが、生きものがいっぱい稲と一緒に生きている田んぼで育とうが、気にする国民はほとんどいなくなってしまった。これが近代化思想の怖いところである。
 先の「いい米」とは、人間の、しかも現代人の誘導された好みにあった米でしかない。なぜこういう発想になってしまったのか、もう問い直す人はほとんどいない。米は人間が農業技術を行使して「つくる」という近代的な発想が、1970年代までの米は天地のめぐみとして「できる」「とれる」という感覚に置き換わったことを、もう誰も気にしない。すべての禍根はここに発している。つまり「農の本質」の大転換が、本来は変わらないから「本質」と言うのに、その変わらないはずの本質が大転換したのだ。農が資本主義化された結末がここにある。つまり経済価値で計れないものは単なる機能(たとえば多面的機能)として農から放逐され、稲や米を生きものとして、天地有情として見るまなざしを私たちは失ってきた。

12、農の表現の薄さ
資本主義社会の表現は、知らず知らずのうちに生産物つまり産み出される経済価値を重視するようになっていく。仕事の誇り=百姓の思い、はどうでもよくなっていく。「結果がすべて」というワケである。これは「工業製品」の影響を受けている。トヨタのプリウスは、どこの工場で生産されたものも、同じだと思われている。じつは豊田市内で生産されたものは、労働者の気持ちがゆったりしているので丁寧に製造されている、というようなことはない。
 米や野菜や果物や卵はそうではない。「この米はどこでとれたものだろうか」と思うのは、なぜだろうか。人間がつくっているわけではないからだ。米は、稲という生きものが、天地自然の力を受けとめて、自身の力で育ったのである。もちろん百姓は手入れに励んだのだが、百姓が主役になれないことは誰もがわかるだろう。稲は百姓の思うようには育たない。稲が自分勝手だからではない。天地自然の中で育つからだ。天地自然はまた田畑をも含む。だから、過去の百姓の手入れの蓄積も含んでいる。このことがさらに作物を個性的にする。
 人間にはそのひとつひとつの個性のほんの一部しかわからない。しかし「どこでとれたものだろう」と思いを天地自然に馳せるときに、さらに大きな世界の中で、その食べものと向き合おうとしているのではないか。それは「産地」を確かめて、結果としての品質や安全性や価格を確かめる行為とは対極にあるものではないか。
 9の絵をもう一度見てほしい。一杯のごはんは稲三株分の米で、それはお玉杓子35匹と一緒に同じ田んぼで育ってきた。米だけを見ていては、こういう世界は見えない。プリウスだって、生産者の気持ちが込められているのだが、私たちは結果としてのプリウスしか見なくなった。食べものも同じ道をたどって来ている。それに歯止めをかける道は残っていることを、この絵で、稲とお玉杓子たちが教えてくれている。
 「農の本質」は生産物の中にもあるのだが、それが見えなくなっている。だからこそ、生産過程の中には見えやすい、と私は言い続けているのだ。「農の本質は食料生産ではない」というのは、こういうことなのだ。だからこそ、「結果」である価格や品質などを語るよりも、「本質」である天地自然と人間のかかわりあいを語るための思想(方法)を探して来たのだった。
 だからこそ、現代では農の語り方こそが問われている。
 9の絵を見た小学生がこう語ったのが忘れられない。「お玉杓子がいないと、稲もさびしかろう」と。

13、どうしたら「近代化・資本主義化」を問い直すことができる
 そこで、「うっかり田んぼの水が干上がって、お玉杓子が死んだとしたらどう思うか」という質問を百姓にしてみた。その回答が次の図1だ。

私は信じられなかった。若い百姓は「ごめん。悪かった。」という回答が極めて少ないのだ。百姓仕事の中で蛙とまなざしを交わした経験が少ないのが原因と思われる。それにしても、「有機質肥料になればいい」「天敵として役立たなかった」というような回答を真顔ですることに、私は衝撃を受けた。はたして経験だけの問題だろうか。
 そこで年配の百姓に重ねて、「それでは、お玉杓子のためにも田んぼに水を張っているという意識はあるか」と尋ねると、全員が「あくまでも稲のために、あるいは草を抑えるためにという気持ちはあるが、お玉杓子のためにという気持ちはない」と言い切るのだった。それならば、なぜ「ごめん。悪かった。」と思うのだろうか。
じつはこういう質問をしたのは、私も同じように詫びた経験があったからだ。そしてその田んぼでは、いつも田んぼに入れば動き出すお玉杓子がその年は全くいなくなった。私はほんとうに「さびしい」と感じた。自分の世界に大きな欠落が生じたような気持ちになった。
私は確信を持って言う。「百姓は無意識にお玉杓子を見てきたんだ」と。そしてお玉杓子も生きている同じ天地有情の世界で、私たち百姓も生きて来たのだ。こうした前近代的な(非資本主義的な)世界を、大事に引き継がなくてはならない。
 技術の定義としては、武谷三男の「技術とは生産(実践)過程における、科学的な(合理的な)法則性の意識的適応である」が一番よくできていると思う。この定義は近代化技術にはよく当てはまる。しかし、これでは百姓が無意識に行っていることは「技術」に価しないと断言しているわけだ。
たしかに百姓は、代かきが始まると、村中が蛙の声に包まれることに対して、「田植えの季節だな。夏が来たな。」とは思うが、「代かきと田植えが蛙の生にとっては不可欠だ。なぜなら蛙の95%は田んぼで産卵するからだ。稲のためだけでなく、蛙のためにも、代かきと田植え、そして田まわりで水を切らさないようにしよう。つまり蛙を育てる技術を意識的に行使しよう。」などと考えることは絶対にない。
 じつは百姓仕事の中には生きものへの無意識のまなざしも含まれていたのである。ところが近代化技術は「有用なものの生産」にだけ焦点をあて(意識化して)技術開発・技術革新を進めてきたために、無意識に感じていた世界を見失ったのである。そのことを当の研究者や指導者や、百姓すらも気づかないままで今日を迎えたということだ。
 私が「近代化技術以前には、無意識の技術があり、それがずっと近代化技術に代わりに天地自然を支えてきたのは、歴史的な事実だ。」と言うと、奇妙なことを言うものだと思われるだろう。このように百姓や農学者の農業技術の見方も近代化されつくそうとしている。このことに危機感を抱いてもらいたい。近代化を問うことが難しいのは、その近代化の根が自分の(もちろん私の)中にも伸びてしまっているからである。それに気づくことが大切で、それに気づけばもう既に、一歩だけ押し返していることになる、と思ってほしい。

14、農の半分を資本主義の市場経済からはずそう
 熊本市では減反田の水が地下水となって供給されているので、上流の市外の田んぼに支援金を支払っている。農業は飲み水も生産しているのだ。その田んぼに支払う金は税金であって、市場経済とは関係ない。横浜市では、田んぼを緑地空間と位置づけて、3万円/10aの支援金が支払われている。福岡県では田んぼの生きもの調査に対して5000円/10aと2万円/戸の環境支払いが実施されていた。
 これらは「環境支払い」と呼ばれる農業政策である。これらは、EUの百姓の所得のうち70数%が税金で補償されていることを参考にしている。なぜなら、経済価値のないものを百姓に支えてもらうには、市場外で評価するしくみを政治が用意するのが、手っ取り早いからだ。
 ただ、このように金額で示してしまうと、大事なことが見えなくなる。「宇根さん、経済を批判しているくせに、結局経済価値・金額で評価するのですか」という批判が多いのも事実だ。だからと言って、私が内からのまなざしで語ると、議論はかみあわない。
 たとえば、福岡県の生きものへの環境支払いでは、「家族や村の中で、生きものが話題になることが増えた」という感想がとても多かった。ほとんどの百姓が「まだ、こんなに生きものがいたのか」と驚いていた。ある百姓は「太鼓打ちを30年ぶりに見た。おれは30年間何を見てきたのだろうか」と語っていた。こういう世界を切り開くために、市場外でカネを「支払う」仕組みが政策として有効だから、方便として利用すればいいのだ。
 百姓は、自分のために言うのではない。生きものや田畑のために、天地自然や風景のために、地域のために、手間暇かかる仕事の技と情念を引き継ぐために、そして村や都会に住む人のために、「農業の半分を資本主義から外して市場経済ではないしくみで支えよう」と言うべきなのだ。
同じようなことを農本主義者は昭和初期に主張していた。まだ百姓が国民の半分を占めていた時代だった。このまま資本主義に吞み込まれていくなら、農の本質は破壊されてしまうと、本気で叫んだのだ。たとえば、彼らの「飯米差し押さえ禁止法案」は貴族院を通過し、衆議院をも通過しようとするところで、見破られた。当時は小作の農地は50%を越え、百姓は飯米を借金の形にしていた。その量は国内の米の半分だったから、これを差し押さえられなくすることは、米の半分を確実に市場の外に出すことになる。百姓が米流通の主導権を握るわけだから、危険だと見抜かれたのだ。
現代の農本主義者は「環境支払い」を提言し続けているわけだが、ねらいは通じている。
 注記:かつての農本主義者の著作は、ほとんど復刻されないままなので、詳しいことは私の農本主義三部作、『農本主義のすすめ』(ちくま新書)『愛国心と愛郷心』(農文協)『農本主義が未来を耕す』(現代書館)を読んでほしい。

15、まとめ
たしかに「種子法」の廃止は唐突だった。しかし、これまで「種子法」に批判的だった百姓が廃止反対を叫ぶのは、待ってほしい。「種子法」に変わる「自家採種法」「在来種保存法」「種子の多様性を守る法律」「品種に経済性を求めない法律」などを構想すべきではないか。在来種の種取りにドイツでは「環境支払い」で報いている。種とりという百姓仕事は、“いのち”をつなぐ仕事である。その仕事を外注するのは、経済のためである。“いのち”は、経済よりも軽く見られるようになってしまった。これに対抗するには、「種子法」の復活だけではどうしようもない。
 私が「遺伝子組み換え作物」の作出と普及に反対するのは、人間の安全性への疑念ではない。百姓仕事の誇りと伝統を破壊するからだ。人間の欲望を鎮めることを最大の特質としてきた百姓仕事に、人間の欲望に歯止めをかけない技術を導入してはならないからだ。さらに、これまで蓄積してきた伝統的な百姓仕事の技を引き継ぎ、工夫していく楽しみを滅ぼすからだ。ゲノム編集技術も同様だ。これに生態系への脅威と不安を加えて、反対している。
私が「種子法」廃止に反対するのは、百姓仕事の大事な世界を奪ったことを全く反省することなく廃止したからである。したがって「種子法廃止反対」とは、次々に百姓仕事が他産業並みに分業化されて、誇りを経済に譲り渡していく社会のあり方を議論するきっかけにするためである。
今年もわが家の稲の花は満開の季節を迎えていた。稲の花には、蜜蜂が飛んできて、しきりに花粉を集めている。時には、田んぼの水を吸って巣に帰っていく。稲は自家受粉だから、蜜蜂の力など借りなくてもいいのに、あんなに雄蘂を長く伸ばして、見せびらかしている。たぶん、ほんのわずかでも、他の品種の花粉で交雑したいのではないのだろうか。そのために蜜蜂を呼んでいるのではないだろうか。稲は、人間のためだけに生きているのではない。稲自身のためにも生きているのだ。そう教えてくれている。それが、自家採種という仕事では実感できる。

反スマート農業のすすめ 
 2019年6月

宇根豊(百姓・農と自然の研究所代表)

(1)「人工知能の予測に従って今年の作付けを決め、ロボットが作業をし、人間は田畑に足を踏み入れることなく植え付けから刈り入れまでを終える。そんな農業が間もなく実現する時代になります。」(2016年12月6日朝日新聞朝刊、当時の農協中央会奥野会長の発言)
(2)「2025年度までに、ほぼ全ての担い手(主業農家)のスマート農業実践を目指す。」(2019年2月5日 政府の未来投資会議にて農水省発表)
(3)私は「日本農業新聞」を購読しているが、スマート農業の記事が載らない日はないほど、推進一色に塗りつぶされている。

1、スマート農業への危惧

農業にICT・AI(スマート農業と言い換えてもいい)を導入する危惧は次のようなものであった。
 (1)作物を「A見る・観察する」ことも、センサーに肩代わりされ、作物への情愛が失われていくのではないか。作物へのまなざしが合理的な、数値化されやすい測定だけに偏ってしまい、百姓の経験の知が薄っぺらになっていくのではないか。
 さらにビッグデータ、ディープラーニングの活用で、これまでの近代化技術があくまでも手段の機械化であったのに比べて、百姓の「B判断する」ことまで肩代わりされ、奪われるのではないか。
 (2)そして、これまでは機械はあくまでも百姓の手足の延長で、身体の一部であったのに、「C手入れ」までもロボットが行うようになり、無人の田畑が生まれることは、もっと大きな世界が失われていくのではないか。
 たとえば、時も、我すらも忘れて百姓仕事に没頭し、気がつくと天地自然に包まれていたと気づくような百姓ならではの境地が失われ、農の工業化に歯止めをかけられずに、「農の本質」が破壊されるのではないか。こうなるといよいよ、百姓の仕事や暮らしや天地自然を、人間の幸せや生き甲斐ではなく、外から指標化できる尺度で分析し、収量や生産性ばかりで評価する時流にあらがえなくなるのではないか。
 (3)ICT技術(スマート農業)が国を挙げて推進される政治状況は、これらの技術思想の受容が結果的には強制され、スマート農業に頼らずに百姓していく道を求める思想の形成が立ち後れてしまうのではないか。かつて有機農業や減農薬運動が、農薬がすっかり普及して20年後、その弊害が明らかになってから、やっと生まれたことへの痛恨を再び味わうことになるのではないか。
ところが、私の危惧は、次の三点で杞憂だとする意見がある。
 (1)先進的なセンサーもコンピューターも、あくまでも百姓の手足の延長であって、百姓の経験知や観察力を凌駕するようなレベルにはほど遠い。
 (2)百姓は、みすみす自分の大切な世界を譲り渡すことはしないだろう。まったく無人で生産が完結する田畑が生まれることはあり得ない。
 (3)国が主導するスマート農業も、「熟練農家の経験知(暗黙知という誤用もあったが)をどのようにとり入れるか」で立ち往生しているぐらいだから、初心者向きの技術ではそこそこ活用できるが、高度な技術では、百姓の経験に裏打ちされた観察と判断は不可欠だ。
たしかに現状の技術レベルではそうかもしれない。しかし、この世界の先駆者の星岳彦先生の「ICTを使うことは、たぶん人間を阿呆にすると思います。」という発言が心に深く残った。

2、なぜ「反スマート農業」を提唱するのか

(1)これまでも近代化技術によって、百姓の「経験の知」が衰えてきたことに目をそらしてはいけない。かつて600種の生きものの名前を呼んでいた百姓が、現在では150種に過ぎなくなっている、ことなどはその典型事例だろう。田畑の多くの動物や植物が絶滅に瀕しているのに、百姓や指導員には危機感があまり見られない。スマート農業は「経験の知」の軽視に拍車をかけることは避けられない。それなのに、農学には「経験の知」(暗黙知や無意識のまなざしも含む)を扱う「方法」が未形成のままだ。
(2)百姓の自然観や農業観、そして在所で生きていくことの人生観などは、これまでの農学では十分に取りあげられて来なかった。これらの感覚・知恵・伝承などが表出・表現されることなく、大きな変化を被ることになるかもしれないのに、そこまで農学の射程が届いていない。
 (3)資本主義的な価値観、つまりとにかく経済成長を求めなければ、富が手に入らないという思い込みが農村にも浸透して、農的な価値観が見失われそうになっている。「大きな物語」が終焉を迎え、対抗思想を生み出すことは難しくなっているが、何かを求めている人も少なくない。(残念ながら私の「新しい農本主義」もそれに応えていない。)

3、科学の陥穽とは

 科学技術が農業の明るい未来を切り開くという期待は、ある意味では虚妄だったのかもしれない。スマート農業を推進する理由は、「農業も経済成長しなくてはダメですから」と露骨に説明されると、驚くしかない。しかし、推進者を批判するのは、木を見て山を見ない愚を犯す。彼らを、そして私たちをも動かしている背後の思想に気づこう。
(1)科学が発達すれば、ほとんどの経験は解析できて、科学の言葉で記述できる、というのはそもそも無理である。「夏ウンカは肥やしになる」という百姓の経験は、要防除密度では説明できないし、感じて、言葉にしている世界が別であることに、私は減農薬運動の中で気づいてしまった。そもそも事例や試験結果を数多く集めれば、要防除密度が決められるという発想が虚妄である。なぜならそこには、百姓という人間主体がないからだ。
 現代の農業界を覆う「自然主義」の猛威は強制されたものではなく、自分で勝ち取ったものでもなく、いつのまにか自覚もなく洗脳された結果として身につけたものではないか。
(2)哲学者の野家啓一さんの言葉を引く。「優れた科学者は見慣れた対象の中に、他の誰もが観察できなかった事実を、新しい理論的仮説の光を当てることによって、観察することができる。この意味で、観察を行うことと理論を形成することとは、切り離せない表裏一体の事柄なのである。」(『「実証主義」の興亡』2001年)
 私たちはものを見るときに、ある一つの理論に従ってものを見ているとは思わないが、それは意識しないだけで、知らないうちに一つの見方にはまってしまっている。その代表が「科学的な見方」である。
科学的な見方で見る必要のないものもいっぱいある。人生は科学で支えられているわけではない。何よりも百姓仕事に没頭している時は、科学など、まして経済性など眼中になくなるのが人間だろう。たしかに、科学的な見方は、自分すらも外側から見る見方を提示してくれる。いわゆる客観的で、合理的で、普遍的かもしれないが、これも一つの見方に過ぎないことを忘れさせてくれるのがすごいし、危険だ。
 (3)科学では捉えることができない別の世界に足をつけて生きているのに、日常会話はそういう世界の会話がほとんどなのに、「公式」に農の世界を語る時には、はなぜ第三者的な、客観的な、合理的な、普遍的なものの言い方が圧倒的に多いのだろうか。「農業をめぐる情勢はきびしい。」という常套句(慣用句?)を引くまでもなく、農を語る表現(物語り)の貧しさをもたらした原因の一つは「科学」にあることはまちがいない。(学術論文の文体を見よ。)協働学は、科学を超えた語り(表現)を取り戻さなくてはならない。

4、「自然主義」に冒されてきている農学と農業

スマート農業を推進している人たちをいつの間にか冒している「自然主義」とは何か、を説明しよう。
 多くの日本人は「自然主義」と聞くと、田山花袋などの「自然主義文学」を思い起こすだろう。これはフランスのゾラがクロード・ベルナールの『実験医学序説』の影響を受けて、自然科学の方法にならって小説を描こうとした文学運動だったが、日本ではこの「自然」をnatureの意ではなく、「自然な」「自然に」という伝来の日本語に引きつけ過ぎたことで、西洋とは違ったものになっている。本来の「自然主義」は文字通りnaturalismであり、野家さんの言葉で説明すると、次のようになる。
 「自然主義とは、究極的にはいかなるものも自然科学に特有の方法で説明できる、とする。その矛先は倫理や価値の領域までおよんでおり、世の中には自然主義で説明できない価値はないとまでいう人もいる。」
 私たち日本人に理解しにくいのは、「自然主義は、対象を自然化して、解明しようとする」と言うときの「自然化」という言葉である。
「自然化」とは、「自然科学にとって、これまで未知の領域であった生命、意識、価値などを物質的自然へ還元し、それを科学的説明の対象としようとする動向のことである。実際、自然科学から排除されていた心的現象もまた、現代では実験心理学、認知科学、脳科学、情報科学などによって自然化が推し進められている。」
 つまり、こういうことではないか。私たちは自然現象はそれこそ「自然な」ことであり、「自然に」生成しているのであり、それを貫く法則を人知でつかめるとは思っていない。自然は生が横溢しており、生々流転しており、受け身で引き受けるのが日本人の自然観の核心であった。ところが、自然科学というものは、この自然現象の中には法則性があり、それを解明することが可能であるという見通しができたから成立したのである。むしろ、すべてを自然現象と見ることが科学的なことだと言うのである。したがって、胆汁が肝臓から分泌されるように、心や思想や価値観は脳から生まれる自然現象であると見るなら、私たちの心も、やがて自然科学(脳科学)で解明できるというわけだ。そしてそれをAIに組み込んで、ロボットに装着させて、百姓仕事をさせれば、理想のスマート農業が完成する。
 百姓の仕事は、食事中も時々モニター画面に目をやり、機械の異常の時の対処と、始業・終業の時の点検と、経営管理に集中できるそうだ。疑問は二つある。ほんとうに人間の振る舞いも含めて、すべての現象を「自然化」できるのかどうか。自然現象と見ることができるのかどうか。二つめは、仮に「自然化」できたとしても、そこに法則性を発見できるのか、つまり自然現象を人間は科学でどこまで解明できるのか。

 野家さんはマッハを引用してこう主張している。「自然における連関は、ある与えられた場合に、一つの原因と一つの結果とを指摘できるほど単純なことは稀である。」これは、私たち百姓の実感そのものである。しかしだからこそ、経験の一部でも「科学」で解明(説明)してほしいと願う気持ちがあるのも事実だ。しかし、さらに危険が待ち受けている。
「自然主義の世俗化されたヴァージョンは、現在「遺伝子(DNA)決定論」や「脳科学決定論」のような形で一般に流布している。自然科学が現象間の因果的必然性を法則化する学問である以上、人間的事象を自然現象に還元してしまえば、それは一種の「決定論」に行き着かざるをえない。決定論では、たとえば殺人を犯しても、それは脳の自然現象であって、その人の自由意志ではないので、罪に問えないことになる。」
そして野家さんは次のように言っている。「現代においてコンピュータが人間像を描くモデルとされていること自体には問題はない。おそらく問題は、このモデルが情報処理の機能を脳にのみ求め、人間をも含めて動物が身体的存在であることを忘れている点にある。人間は身体を通じて絶えず環境と相互交渉を行っている。」
 私たち百姓はこの相互交渉のなかで、身体で喜びと疲れを感じ、そして相手の稲や蛙に話しかける。決して、脳内に映っている稲や蛙に話しかけたりはしない。野家さんの言葉を借りるなら、「われわれは意識のスクリーンを通して対象と向き合っているのではなく、対象の傍らにじかに居合わせているのである。」
 スマート農業では、ドローンが撮影した画像で、作物の生育を判断し、施肥や防除を決定し、作業もドローンが行う。百姓は指示された薬剤を計って積み込むという下請け作業を行い、ドローンが処理した映像をモニターで見て、納得する、というわけだ。これは、農の本質(倫理と言ってもいい)を根底から破壊することになるのではないのか。
若い頃の私にとって輝いていた武谷三男の有名な技術の定義がいよいよ色あせて見える。
「技術とは生産(実践)過程における、科学的な(合理的な)法則性の意識的適応である」
 この定義のどこが、(少なくとも農業にとっては)間違っているのだろうか。
 (1)「科学的な法則性」では、自然環境の一部しか、一側面しか捉えることはできない。
 (2)農業技術では、技術の行使者の経験や思いによって、技術は簡単に変容する。
 (3)技術はその時代の社会の価値観を無意識に体現してしまう。
スマート農業の技術に対して、この定義が無力なのは、あえて言い切ってしまえば、この定義こそ「自然主義」の典型ではなかったろうか。私たちは、(農学は)これからの未来を開く新しい技術論をまだ手にしていない。

5、スマート農業の思想

 (1)農業分野の科学は、農政の枠組みの中で(資本主義経済の価値観に合わせて)ほとんどの科学研究が行われている。(国を挙げてスマート農業に傾斜しているのは、その典型だろう。)このことは当然だと思われている。
(2)科学的なものの見方で、農と自然を解明できるという「自然主義」の考え方が強くなりすぎて、人間の伝統的なまなざしを軽視し、やせ衰えさせている。
(3)その農業技術(科学研究)が、百姓や村(自然も)を果たして幸せにするのか、あるいは破壊する面もあるのか、と思考する習慣が消えようとしている。
これを推進する側の政府や科学者の責任に帰すこともできるが、何よりも自前の「学」を形成する方法論を、私たちが形成できなかったからではないか、村の中に普及できなかったからではないだろうか。
それでは「スマート農業」のどこが、従来の学では手に負えないのだろうか。
 (1)百姓仕事は技術に分解できる、置き換えることができる、という前提に立つ。つまり、百姓仕事の中の、生産に直結する手段を抜き出して、科学的に数値化・機械化・科学化できる部分を「技術(上部技術)」として、研究・開発できるとする。これまでの近代化技術はこれで、うまくいったと総括されている。そんなことはない。
 (2)人間以外の手段で、仕事を数値化、機械化、科学化することを、極限まで追究しようとしている。人間は田畑に降り立つことなく、直接手を下さずに営まれる農業をめざし、それを良しとする。しかし、スマート農業の推進者の中にも、これまでの近代化技術の延長ではいけないのではないかという論者もいる。
 (3)それは、生産性をさらに上げるために、そして農業の担い手不足を、機械やコンピューターで補うための決定打だと言われている。素朴なまでの農業の工業化路線である。
 私がもっとも危ぶむのは、スマート農業を推し進める政策の土台にある「技術に対する考え方(技術論)」と「科学に対する姿勢(科学論)」を議論する機会と場が、圧倒的にこの国の農業界と農学界には少ないことだ。あまりにも現状追認、あるいは現状改良に傾きがちなのだ。
 そこで私は、次のように考える。
 (1)専門家が日々の活動の中で、百姓と共に、これらの農業技術を取扱い、場合によっては拒否していく考え方を話題にして議論してほしい。
(2)農業技術のイノベーション=農業の生産額の増大=百姓の幸せ、という現代社会を覆っている主流の考え方を突き放して、村の中で考えるための方法を編み出してほしい。
 (3)人間や生きものの「生」をとらえるためには、自然科学だけでは不可能であり、もっと適している方法がいくらでもあるはずだ。そういう「学」(思想)の全容を明らかにして、一人一人がもっとまなざしを広げ、射程を遠い過去から遠い未来まで延ばしたい。
 つまり、自前の「科学論」と「学問論」を、専門家が、第三者の視点ではなく、もちろん百姓の視点でもなく、協働者(半当事者・第二人称の立場・第二者)の立場で、百姓や共同体と協働して、つくりあげていきたい。

6、天地自然と農業技術の関係とは

私はスマート農業は、否が応でも「経験」と「科学」の再会を準備せざるをえない、というように持って行きたい。百姓仕事は食料を生産しているだけでなく、その人の天地自然観や生命観(これも物語り)を育んでいる。この天地自然観と生命観を、技術に組み込むためにはどうしたらいいのだろうか。そういう問いを浮上させたいのだ。私は「生きもの調査技術」を開発して、百姓仕事に入れ込むことを画策して、生きもの調査の講習を続けてきた。
その結果、たしかに百姓仕事の最中には生きものへのまなざしが、それも技術が目的としてない対象にも注がれており、無意識にも生きものへの情愛が身体に宿るようになっていることを明らかにした。(2018年の研究発表)生きもの調査技術は、それを引き出し、意識するための方法としても有用であった。
 ところが、ドローンで田んぼの中を撮影して、生きもの調査をやらせてはどうかという提案が、ある企業から持ち込まれた。つまり「生きもの調査技術」もAI化し機械に任せようというのである。私は拒否したが、可能性はないわけではない。
昨夏のEXセミナーでも「センサーもどんどん低価格化しており、これまでコストがネックになっていた技術もこれからは普及していく可能性がある」と指摘されていた。無人トラクターも三社の製品が市場に出始めている。もちろんまだまだ技術的な課題、高コストの問題は残されているので、すぐに普及するとは思えない。しかし、やがて無人の機械ばかりが働いて、人間の姿は見えない農村が出現しないとは言えなくなっている。
 国家を上げて推進されるのだから、私たちにできることは、二つである。まず、どういう場面で、どういう段階で、こうした技術(スマート農業)を拒否すべきかを明らかにすること。有機農業が農薬が普及し終わった20年後に、出てきたような愚はくり返すべきではない。次に、受け入れるにしても、スマート農業によって、何が失われていくか、それをどう補っていけばいいか、を明らかにすべきである。かつて農薬が百姓の判断力を養成することなく普及したために、やっと30年後に虫見板による「減農薬稲作」が生まれてざるを得なかった痛恨をくり返さないためだ。

7、百姓仕事への影響を考える

これまでスマート農業を推し進めている社会的な背景について、野家さんの哲学を導き手として考察してきた。それは、技術というものを考えるときに、これまで等閑視され続けてきたことに光を当てることになった。
 さて、ここからは、スマート農業をどう迎えたらいいのか、具体的な処方を考えてみよう。
問題の核心はスマート農業の機器の中身にはない。それらの機器によって、百姓仕事が豊かになるか、それとも破壊・喪失につながるか、である。それはすべての専門家が抱え込む課題となる。なぜなら、それは「農の本質」をあぶり出すことになるからである。

図:仕事の分解
   【人間】      【ICT・スマート農業】
  A見る(観察)   センサー・ビッグデータ
  B判断する     プログラム・ディープラーニング
  C手入れする   自動作業

上の「仕事」に注目してみよう。
 (1)百姓は「A見る(観察)」ことを、眼だけで行っているのではない。耳も鼻も手足の触感も、そして肌で感じることも重要だ。しかし、これらの結果を必ずしも表現しない。自分で感じているので、他人に伝える必要がないからだ。ここに弱みがあるのかもしれない。伝えないといけないときに(表現を求められた時に)うまく表現できないことが多い。仮にできたとしても、「夏ウンカは肥やしになる」では、数値化できていないので、他の田んぼで検証ができない。
 これに対して、スマート農業は人間には感知できない対象のセンサーを搭載しているし、(温度、湿度、日射量、光度、窒素含量、二酸化炭素濃度、葉緑素量など)誰にでもわかるように数値化して見せてくれる。しかし、人間の五感には及ばない事項も多い。そもそも人間は、常に過去の経験を呼び起こしながら、比較判断しながら、さらに「見る」ことが続けられる。しかし「たしかに便利だ」と思わざるをえないセンサーもあるからこそ、導入も進んでいるわけだ。
 【対応】センサーはあくまでも百姓の五感・身体感覚の延長でしかない、と思い定める。つまり常に、自分の感覚とセンサーの数値をつきあわせる新しい「仕事」を欠かしてはならない。「それでは省力にならないではないか」という反論には「決して省いてはならない仕事がある。これを省くと、私の人生の土台が崩壊する。愛する相手と遠く隔たった土地におろうと、気持ちが届くのは、いくら機器を使用していても、(使用していなくても)伝えたい、伝わってくるという気持ちに浸る時間があるからだ。まして農では、相手はそこにいるのだから。」と言おう。
【対策】センサーの数値は誤差が避けられない。機械の精度、設置場所の差、数値と経験の突き合わせは、必要不可欠である。機器任せの判断は大きな失敗につながる。センサーをつけた当初は、むしろ労働時間を増やして、できる限り自分の手足となる訓練を自分にも課すべきである。どうしても手足の延長になりそうもないときには、「もったいない」などと思わずに、改良を要求するか、返品すべきであろう。

(2)百姓はどういう手入れをしたらいいかの「B判断」を、自分の価値観や農業観・自然観、また仕事観や在所への情愛、そして経営感覚など総動員して行ってきた。また、現在の状況(データ)だけでなく、過去の経験も呼び起こしながら、判断している。さらに意識的な世界だけでなく、無意識も判断に影響を与えている。この判断こそ、多様で多彩なもので、通常はマニュアル化できないものだった。それをも、ビッグデータをディープラーニングで処理しようとしている。たしかに当面は使いものにならないAIが多いだろうが、「百姓の参画」で深化(進化)していくようになるかもしれない。
 【対応】百姓の参画とは、百姓の「経験の知」をAIに組み込もうとする場面で要請されるだろう。それには応じてもいい。しかし、あくまでも「経験の知」は、その在所で、その百姓にしか通用しないものを含んでいる。それを切り捨てようとするなら、「参画」ではなく、「利用」されているにすぎない。もし、機器のAIの判断に百姓が参画できないシステムならば、「未熟」だと考えるべきだ。センサー以上に、百姓の判断と比較しなくてはならない分、壁は厚いはずだ。
【対策】たぶん、判断システムは最初は、「熟練農家」の足下にも及ばないだろう。しかし、徐々に初心者向けなら通用するようになるかもしれない。しかし、これは初心者の技能の発達を阻害するかもしれない。どのような側面を阻害するか、「熟練農家」がアドバイスしなくてはならない。(AIがアドバイスできる可能性は極めて少ない。)

(3)そして「C手入れ」だ。これまでも機械化はずいぶん進んだ。農薬や化学肥料や化学的な資材もずいぶん普及した。そのたびに、「生産性」(費用対効果)などはかなり検討されてきたが、それが百姓の(1)「見る」(2)「判断する」仕事の能力にどのように影響するかは、全くというほど考察されて来なかった。ここに来て、そのツケが回って来ている。したがってこう言われている。「これまでもちゃんと人力は省力化されて来たのだから、いまさら“無人化”を批判するのはおかしい」と。
 【対応】まったくの無人化は避けたい。必ず百姓が立ち会うこと、一緒に仕事をすることが大切だ。当初は作業機械を「指導」せざるをえないだろう。そのうちに、それなりの作業はできるようになるだろう。それからが問題だ。「農家の子どもが、学校の授業やイベントで、生まれて初めて田植えを経験する」という愚かな事態を避けることと同様の対応が求められる。
【対策】どんなに無人化がうまくいくようになっても、百姓は必ず「手入れ」の一部は「体験」するようにする。無人トラクターに乗車して、一部は耕耘することを自らに義務づけないといけないだろう。

(4)まとめ
 たとえば機械に「仕事が終わった」という達成感は生まれるだろうか。あるいは「これで作物が喜んでいる」という情愛は蓄積されていくだろうか。無理だとすれば、やはり百姓が味わうしかない。そのための方策を農業技術の推進者は形成する覚悟があるのだろうか。これまでのように「それは百姓が考えることだ」と逃げるわけにはいかない。百姓がそこ(現場)にいないのだから。
 もし機械にそれも学ばせることが可能だと考えるなら、事態はさらに深刻になる。百姓は精神や情愛、天地自然観、パトリオティズムまで機械に譲り渡すことになる。まさか、そういう事態に何の異議申立てもしない農学にはならないだろう。
最後にもうひとつ検討しておかなければならないことがある。スマート農業を拒絶して農業を営む道のことである。そういう農業は「遅れている」という烙印を押されるかもしれない。あるいはとりいれるだけの資本がないのか、と馬鹿にされるかもしれない。農薬使用や遺伝子組み換え作物に反対している人たちも、スマート農業に反対しようとするきざしはまったく見られない。それを論難しようとは思わないが、ひょっとすると有機農業以上に孤立無援の道が待っているかもしれない。そうならないように、反AI農業、反スマート農業の方が本道であることを、協働学はしっかり理論化していきたいものだ。

8、むすび

 細切れになってしまった農学では、ICT、AI、スマート農業は単なる一分野のことだと思っている人が多い。これらの先端技術が農の本質を脅かしているという認識は、決して杞憂ではない。そういう感度を持ちたいと思うのは、百姓は資本主義経済(市場経済)に乗せられない、カネにならないモノやコトをいっぱい天地自然から引き出してきたのに、それを人間が言葉にする(物語る)こと自体まで、不可能にする技術(機械システム)を目の前にして、農学の対応が遅れていると痛感するからだ。

〔追加したい思想〕

農学の「学」としての空洞とは

 みなさんは農学の構造上の欠落に、そのぽっかり空いた空洞に気づかないだろうか。本来その空洞を満たさなければならないものの重要さが放置されてここまで来てしまったのではないか。皮肉にも、それを構築し直す必要性を、「スマート農業」は教えてくれている。この逆説が情けないと、私は思う。
 
 空洞への気づき・その発端

 2300年前の『荘子』から説明を始めよう。一人の百姓が井戸に降りては甕に水を汲んで、畑に水をやっている。それを見ていた孔子の弟子が声をかける。「はねつるべを使えば、100倍も効率が上がりますよ。」百姓は「そういう機械を使うと“機心”(機械に頼る心)が生じる。機心が生じると作物の気持ちがわからなくなるから使わないのだ」と答える。孔子の弟子は返す言葉もなかった。
 それから数百年経って、荘子の弟子たちは上の物語りに続きを付け加える。
 孔子の弟子はこの話を孔子に「すごい百姓がいたものです」と報告する。すると孔子は「その程度で感心するな。機械を使っていても“機心”が生じないのが、更なる高みなんだ」と諭す。
しかし、機械を使っていても“機心”を生じさせないのは、老荘の「道」でも簡単ではない。
 この難題は、江戸時代から昭和前半の百姓によって、簡単に解決される。
 機械もろとも百姓仕事に没入して、「我を忘れる」境地になればいいのである。
 しかし、話はここで終わらない。戦後の近代化技術はこの百姓の知恵では対応できなくなってくる。さらに、スマート農業になると、この“機心”の存在そのものが、問われることもない。

 空洞に充填すべきもの

 この農学の空洞に充填してほしかったものは、農業技術を人間が使いこなすときの核心である「感性・情愛・勘・経験・思い・生き甲斐・矜持」などである。それが、なぜ農学ではとりあげられることがなかったのだろうか。ひとつの答えは、農学に限らず「科学」の構造的な欠陥であると、大森荘蔵さんや野家啓一さんによって指摘されている。(詳細は省く)
 もう一つの答えは、この“空洞”に当たるものは、百姓自身が考えるものであり、学は手を出さない、手が出せない問題だと考えられてきたからであろう。しかし、これはじつに奇妙な言い分である。「機心」が生じるような技術を開発して来たのに、当の「機心」の克服には関与せずという態度は無責任だろう。

 ドグマにとらわれていることに気づかないのはなぜ

 2019年2月に上京した折に、山手線の車中モニター広告が目に入って、びっくりした。OLが通勤途中で目についた野の花を、スマホで撮影して送信すると、名前をディープラーニングで答えてくれるだ。つい「これは使えるな」と思った。現に農業分野でも、写真による病害虫の同定と診断のためのソフト開発が進行中である。
 スマホで当人が撮影して「名前を知りたい」「防除すべきかな」と思って、同定・診断ソフトに頼るのは、これまでの技術の延長にある。しかし「便利になったなあ。もう図鑑はいらないな」と感心している場合だろうか。何かを失おうとしているのに、私たちはそれに気づかないようになっているのではないか。 【難題1】
しかも、この技術はさらに「進歩する」のは必定だ。現にドローンで田んぼの上から稲を撮影して、施肥を判断する技術は普及に移されている。OLが腰に着けたカメラで道端の野の花を撮影しながら通勤し、会社に着いたら、モニター画面で、「こんな花が咲いてたんだ」と初めて確認するならば「いちいち、道端の草花に目を向ける労力が省けて助かった」と思うだろうか。
 私は、冗談を言っているのではない。スマート農業では、こういう事態を実現しようとしているのだ。写真を撮影し、名前を同定すること自体が目的ではなく、まなざしを向けること自体が目的というか、楽しみではなかったのか。これを農学は何と呼んできたのだろうか。どのように位置づけたり、価値づけたりしてきたのだろうか。 【難題2】

 ここまで考えて来て、追加する前の文章1~8は、完全に上記の技術を容認する土俵に上がってしまっていることに気づいて愕然とした。まあ、従来の農学ならそれでもいいのだろうが、私は「百姓学」を提唱している身なのだ。
 仕事を、A:見る、B:判断する、C:手入れする、と区分けしたこと自体が、近代技術の枠組みに入り込んでしまっている。農業技術のことならともかく、ことは「百姓仕事」の総合的な考察なのだから。
 つまり、機械じゃあるまいし、百姓は、A見ることは、B判断することにつながり、さらにC手入れに直結する、という図式で仕事をしているわけではない。それなのに、A→B→Cという流れに収まるものだけを拾い上げていることは、とても偏向している。いつの間にかこの流れからこぼれ落ちるものがあることにすら気づかなくなる。ここにこそ、スマート農業の最大の欠陥があることに、これまでの私は十分に気づいていなかった。これでは、スマート農業の推進者と五十歩百歩だと言われてもしかたがない。 【難題3】
 A:見ることは、それだけでも意味があることなのだ。楽しいことなのだ。悩ましいことなのだ。それなのに、B判断するための前段だ、というのはまるで機械ではないか。しかも眼だけで見ているのではない。身体全体で、五感で感じている。
 B:判断することだって、見ていなくても、ふと思い出して、ああしよう、何となくこうしようと決めることはよくあることだ。
 C:手入れすることは、対象との関係に没入し、我すらも忘れることは珍しくない。無意識に身体が動くばかりか、田畑や稲が呼んでいるから、そこに行って手入れをすることも多い。
 さらに、これらをA:B:C:と分解してしまうと、総合することを忘れてしまう。「機心」などは見つからなくなるし、それを超える道は想像すらできない。(分解することが無駄だと言っているのではない。)
 だからこそ、ABCの総合は「収穫物で評価すればいい」という言い分になびいてしまう。ABCの総合とは何だろうか。それが「百姓仕事」というものではないか。それは、天地有情の感慨であり、天地のめぐみを受けとる喜びであり、「今日も仕事がはかどった」という充実感であろう。ここでは「機心」もすぐ見つかるし「機心」を抱かずに済む方法もすぐ見つかる。
 
農学の空洞とは

 さて、やっとたどり着いた。最初に指摘した農学の空洞とは、ABCと分ける発想法につきまとう欠損(欠落)なのだ。いわゆる科学的な思考法の欠陥である。大森荘蔵の言葉を借りれば、科学は対象をいつのまにか「死物化」するのだ。そして、じつはこう言う私まで、ついこの空洞を作り出すことに加担していたのだった。このように根は深い。私は山手線CMのOLに感謝しなければならない。そして反面教師としてのスマート農業にも。

              

 2020年1月

今月の思想