農学の「学」としての空洞とは

農学の「学」としての空洞とは

 みなさんは農学の構造上の欠落に、そのぽっかり空いた空洞に気づかないだろうか。本来その空洞を満たさなければならないものの重要さが放置されてここまで来てしまったのではないか。皮肉にも、それを構築し直す必要性を、「スマート農業」は教えてくれている。この逆説が情けないと、私は思う。
 
 空洞への気づき・その発端

 2300年前の『荘子』から説明を始めよう。一人の百姓が井戸に降りては甕に水を汲んで、畑に水をやっている。それを見ていた孔子の弟子が声をかける。「はねつるべを使えば、100倍も効率が上がりますよ。」百姓は「そういう機械を使うと“機心”(機械に頼る心)が生じる。機心が生じると作物の気持ちがわからなくなるから使わないのだ」と答える。孔子の弟子は返す言葉もなかった。
 それから数百年経って、荘子の弟子たちは上の物語りに続きを付け加える。
 孔子の弟子はこの話を孔子に「すごい百姓がいたものです」と報告する。すると孔子は「その程度で感心するな。機械を使っていても“機心”が生じないのが、更なる高みなんだ」と諭す。
しかし、機械を使っていても“機心”を生じさせないのは、老荘の「道」でも簡単ではない。
 この難題は、江戸時代から昭和前半の百姓によって、簡単に解決される。
 機械もろとも百姓仕事に没入して、「我を忘れる」境地になればいいのである。
 しかし、話はここで終わらない。戦後の近代化技術はこの百姓の知恵では対応できなくなってくる。さらに、スマート農業になると、この“機心”の存在そのものが、問われることもない。

 空洞に充填すべきもの

 この農学の空洞に充填してほしかったものは、農業技術を人間が使いこなすときの核心である「感性・情愛・勘・経験・思い・生き甲斐・矜持」などである。それが、なぜ農学ではとりあげられることがなかったのだろうか。ひとつの答えは、農学に限らず「科学」の構造的な欠陥であると、大森荘蔵さんや野家啓一さんによって指摘されている。(詳細は省く)
 もう一つの答えは、この“空洞”に当たるものは、百姓自身が考えるものであり、学は手を出さない、手が出せない問題だと考えられてきたからであろう。しかし、これはじつに奇妙な言い分である。「機心」が生じるような技術を開発して来たのに、当の「機心」の克服には関与せずという態度は無責任だろう。

 ドグマにとらわれていることに気づかないのはなぜ

 2019年2月に上京した折に、山手線の車中モニター広告が目に入って、びっくりした。OLが通勤途中で目についた野の花を、スマホで撮影して送信すると、名前をディープラーニングで答えてくれるだ。つい「これは使えるな」と思った。現に農業分野でも、写真による病害虫の同定と診断のためのソフト開発が進行中である。
 スマホで当人が撮影して「名前を知りたい」「防除すべきかな」と思って、同定・診断ソフトに頼るのは、これまでの技術の延長にある。しかし「便利になったなあ。もう図鑑はいらないな」と感心している場合だろうか。何かを失おうとしているのに、私たちはそれに気づかないようになっているのではないか。 【難題1】
しかも、この技術はさらに「進歩する」のは必定だ。現にドローンで田んぼの上から稲を撮影して、施肥を判断する技術は普及に移されている。OLが腰に着けたカメラで道端の野の花を撮影しながら通勤し、会社に着いたら、モニター画面で、「こんな花が咲いてたんだ」と初めて確認するならば「いちいち、道端の草花に目を向ける労力が省けて助かった」と思うだろうか。
 私は、冗談を言っているのではない。スマート農業では、こういう事態を実現しようとしているのだ。写真を撮影し、名前を同定すること自体が目的ではなく、まなざしを向けること自体が目的というか、楽しみではなかったのか。これを農学は何と呼んできたのだろうか。どのように位置づけたり、価値づけたりしてきたのだろうか。 【難題2】

 ここまで考えて来て、追加する前の文章1~8は、完全に上記の技術を容認する土俵に上がってしまっていることに気づいて愕然とした。まあ、従来の農学ならそれでもいいのだろうが、私は「百姓学」を提唱している身なのだ。
 仕事を、A:見る、B:判断する、C:手入れする、と区分けしたこと自体が、近代技術の枠組みに入り込んでしまっている。農業技術のことならともかく、ことは「百姓仕事」の総合的な考察なのだから。
 つまり、機械じゃあるまいし、百姓は、A見ることは、B判断することにつながり、さらにC手入れに直結する、という図式で仕事をしているわけではない。それなのに、A→B→Cという流れに収まるものだけを拾い上げていることは、とても偏向している。いつの間にかこの流れからこぼれ落ちるものがあることにすら気づかなくなる。ここにこそ、スマート農業の最大の欠陥があることに、これまでの私は十分に気づいていなかった。これでは、スマート農業の推進者と五十歩百歩だと言われてもしかたがない。 【難題3】
 A:見ることは、それだけでも意味があることなのだ。楽しいことなのだ。悩ましいことなのだ。それなのに、B判断するための前段だ、というのはまるで機械ではないか。しかも眼だけで見ているのではない。身体全体で、五感で感じている。
 B:判断することだって、見ていなくても、ふと思い出して、ああしよう、何となくこうしようと決めることはよくあることだ。
 C:手入れすることは、対象との関係に没入し、我すらも忘れることは珍しくない。無意識に身体が動くばかりか、田畑や稲が呼んでいるから、そこに行って手入れをすることも多い。
 さらに、これらをA:B:C:と分解してしまうと、総合することを忘れてしまう。「機心」などは見つからなくなるし、それを超える道は想像すらできない。(分解することが無駄だと言っているのではない。)
 だからこそ、ABCの総合は「収穫物で評価すればいい」という言い分になびいてしまう。ABCの総合とは何だろうか。それが「百姓仕事」というものではないか。それは、天地有情の感慨であり、天地のめぐみを受けとる喜びであり、「今日も仕事がはかどった」という充実感であろう。ここでは「機心」もすぐ見つかるし「機心」を抱かずに済む方法もすぐ見つかる。
 
農学の空洞とは

 さて、やっとたどり着いた。最初に指摘した農学の空洞とは、ABCと分ける発想法につきまとう欠損(欠落)なのだ。いわゆる科学的な思考法の欠陥である。大森荘蔵の言葉を借りれば、科学は対象をいつのまにか「死物化」するのだ。そして、じつはこう言う私まで、ついこの空洞を作り出すことに加担していたのだった。このように根は深い。私は山手線CMのOLに感謝しなければならない。そして反面教師としてのスマート農業にも。